気仙地域における千石船の概要

気仙丸の舘の説明版

「気仙丸の舘」に掲示された説明板(木製)

千石船(弁財船)の運航

江戸に幕府が開設されると、諸大名の参勤交代や商品流通の面から「百万都市」が形成されました。各地の城下町や農村から、生活必需品の輸送が頻繁(ひんぱん)となり、その重責をになったのが、上方と江戸を結ぶ菱垣船(ひがきせん)や樽廻船(たるかいせん)で、どちらも弁財型船でした。

新航路の開発と弁財船の大型化

寛文十一年と十二年二六七一上こ豪商・川村端賢(ずいけん)によって「西廻り」と「東廻り」の新航路が開発されると(完全帆走による弁財船の大型化が図られました。この三百石積み以上の親船を、語呂も良いことから「千石船」と呼ぶようになったのです。仙台領では、三、四百石積み船を「天当(てんとう)船」と呼び、それより小さい百石、二百石積みの小廻し船を「小天当」とか「五大力(ごだいりき)船」と呼んでいます。

為登(のぼせ)と長崎俵物

三陸沿岸からの為登の物産は「長崎俵物」と呼ばれる、幕府直轄の「干し鮑(あわび) ・煎海鼠(いりこ)鱶(ふか)ひれ」の三品と、仙台領「御国産物御仕法」による「五十集物(いさばもの)=魚類・鮫(さめ)粕・魚油・海草・葉たばこ」となっ‐‐iており、上記の五品のほかに「米・塩・紅花・絹糸・真綿・藍・漆・蝋(ろう)」などでした。(岩手県漁業史)

けせんごまめの普及

特に、気仙浜々では鰯(いわし)が豊富に獲れ、ために鰹(かつお)漁が盛んで、三陸の鰹節(かつおぶし)と、節削(ふしけず)り職人も高名で一世を風びしました。さらに、いわしで加工する「田作(たづくり)り」は、花のお江戸の「おつまみ」として大量に普及しました。そして、何と「けせんごまめ」は着物の柄となって江戸の俳諧や文学のなかに読み込まれているのです。(小学館国語大辞典参照)

気仙丸の概要

この船の石数は、四百石積み(約六〇トン)、乗組員は八人、風待ち三日を入れても八日間ぐらいで、気仙浜から茨城県の那珂湊まで航行したとの記録が残されております。 経済性に優れ、また、波をしのぐ力や、復元性とともに安全度の高かった千石船は、追い波と舵を守るために発達した船尾構造の美しさをもって、和船の完成品と言えましょう。